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シルクの歴史

シルクの変遷

古代より、優れた機能と美しさで、私たちを魅了し続けているシルク。
どのような歴史をたどってきたのか、ひも解いてみましょう。

養蚕のはじまり

養蚕のはじまり

養蚕は、中国で紀元前6000年頃に始まり、紀元前2000年頃からシルクの生産が本格的になったと言われています。

シルクロードで世界へ

シルクロードで世界へ

長らく、養蚕の高い技術は中国が独占していました。
中近東や西洋への輸出でいっそう栄えその交易ルートが「シルクロード」と呼ばれるようになりました。

シルクロードで世界へ

シルクの機能性や、交易によってしか入手できない稀少さから、世界的にも、歴史的にも、高級な繊維として扱われてきました。

古代エジプトの絶世の美女・クレオパトラが貝殻で染めたシルクを愛用したことは有名です。

また、中近東でも「ペルシャ絨毯」などのエキゾチックな文様が、シルクの織物として発展しました。

日本には弥生時代頃に伝わった養蚕技術

日本には弥生時代頃に伝わった養蚕技術

日本には弥生時代頃に伝わった養蚕技術

養蚕技術は、日本には弥生時代頃に伝来したと言われ、日本でも、同様に高級品として扱われてきました。

飛鳥時代の税制である租庸調の「調」は繊維類を納めるものとされ、この時代には絹(シルク)で納税もしていたという記述が残っています。

江戸の粋、普段着としての紬

江戸の粋、普段着としての紬

時代が下がって江戸時代前半になると鎖国中も長崎では良質な中国シルクの輸入が認められていました。

この輸入額が膨大であったことから、江戸時代を通じて日本国内での養蚕に力が入れられ、技術が発達しました。

江戸時代には折に触れて贅沢禁止令が出され、絹織物の多くは贅沢品として庶民には禁じられていましたが、そんな中でも紬だけは着用が許され 落ち着いた色合いが江戸の粋(いき)とされていました。

シルクの輸出国として

シルクの輸出国として

シルクの輸出国として

明治時代に入ると、養蚕業は産業革命の柱として位置付けられます。
江戸時代に発展した技術に加え、当時ヨーロッパで絹織物の最先端を走っていたフランスのリヨンから技師を招いたり機械を導入して、瞬く間に絹の輸出国となりました。
これを牽引した「富岡製糸場」は、2014年に世界遺産に登録されました。

養蚕業の衰退

最盛期の昭和初期には養蚕業従事者は全国で50万人以上にものぼり、生産量が中国を越え世界一になりました。
しかし、戦争や世界恐慌などを境に、海外の市場の喪失や化学繊維等の安価な代替品の普及により、生産量は徐々に減少。昭和30年代に盛り返した時期こそあったものの、シルクの故郷である中国が生産費の安さなどを背景にその座を奪還しました。
全盛時は、221万戸もの農家が従事していた基幹産業でしたが、現在では、全国で500戸を下回っています。

シルクの優れた機能をいかして

シルクの優れた機能をいかして

シルクの優れた機能をいかして

シルクの優れた機能をいかして

シルクの優れた機能をいかして

現代では、ファッション衣料やランジェリー、ネクタイなどの服飾品として全世界で愛されているだけでなく、シルクの優れた機能は、健康や美容にも活かされ、再生医療やサプリメント化粧品などにも利用されています。

皇后陛下が育てる蚕

天皇家の養蚕の歴史は古く、文献上では古墳時代末期にそのルーツの記述があります。

現代に直接連なるものでは、明治時代以来、皇居の中にある「紅葉山御養蚕所」で、貞明皇后、香淳皇后、美智子皇后と歴代の皇后陛下がご養蚕を行われ、宮中の行事でのお召し物や、外国への贈り物にされています。

もとは明治時代に右肩上がりだった養蚕業奨励として始まったもので、これが現在まで続く「皇后御親蚕」と呼ばれる伝統になっています。

皇后陛下が育てるシルクの意味

蚕を網に移す上蔟(じょうぞく)の作業をされる皇后陛下
蚕を網に移す上蔟(じょうぞく)の作業をされる皇后陛下【画像引用:共同通信社】

奈良時代から続く日本古来の在来種である「小石丸」は、明治時代には多く飼育されてきましたが、交雑種に比べて生産性が低いことから次第に生産量は減っていきました。

そのため、皇后御親蚕でも飼育の中止の話がありました。

しかし、美智子上皇后が「日本の純粋種と聞いており、繭の形が愛らしく、糸が繊細でとても美しい。もうしばらく古いものを残しておきたいので、小石丸を育ててみましょう」とご提案され、現在でも飼育が続けられています。

1990年代以降、正倉院宝物の織物や復元や巻物の修復に、この小石丸のシルクが最適であることが分かり、皇室のシルクは伝統的な日本文化を伝えることにも生かされています。

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